ありがとうと?何回言った?何回言われた?

今日もふとした事で書いてみました。お付き合いください。

私達は子供の頃から大人に成りやがて死んでいきます。
これを仏教では、四苦しみ(生老病死)逃れられない苦と言います。
ふと?娘と話していた時に?思ったのは?
人間て?どれだけ?人様から、手を合される程の「ありがとうー」と
言われたのか?回数もそうですが、どんだけ?ありがとうーと言われたのか?
此処が?大切なんだなーと思ったんです。
私は職業柄、多くの方より、合掌と会釈され感謝のありがとうございました。と
言われる回数や場面が多いんです。
娘にも?お前は?どれだけ?友達や家族周りの人達や見知らぬ人から?
感謝のありがとうーと言われた事がどのくらいあるの?と聞いたんです。
自分以外の人達や当然!動物や草花全てに対して、ありがとうと言われる
言動をしているの?
人様にありがとうと言われる?言動は無理にしようとしてもは出来ないんです。
自分の心が!慈悲にあふれ、神仏様と同じ心出ないと出来ないんです。
いつも、自分の心を、愛の心でいないと、出来ないんだよーと話すんです。
人様や弱い動物植物に、優しく接して、より多くの「ありがとうー」の言葉を
いっぱい心に貯めるんですよ、これが仏の功徳を積むと言うんですよー
だから?今日ありがとうーって?何回いわれた?と聞くんです。
じゃー今日何回いい事した?聞くんです。
悪い事は聞きません、良い事や愉しい出来事を聞くんです。
そうすると!自分の魂には、良い事、楽しい事柄が蓄積し
心が愛あふれる魂になるんです。
皆さんも、悪い思い出ばかりが心にとどめず、良い事愉しい事を一番に考える事が大切
ありがとーありがとーありがとー!自分も周りの感謝する事にありがとうーと言いましょう。
どんどん運気も性格も変わり、笑顔に成って行く自分が分かるはずです。
私の坊主の誓願は「有縁無縁健康幸供養」です。
私に関係する人達の幸せを毎日、神仏様に直接お祈りしております。
この世は心を育て学ぶことが人間の最終終着点なんですよ。
神心に気づくのは、はい!、今なんです。

追伸:してやった善意は、相手に見返りの請求書は捨てなさい。
見返りは決して求めてはいけません。ちゃんと、神仏様は天からいつでも見ていますよ。

■補足→「ありがとう」の由来
私たちがよく使う“ありがとう”は漢字で書けば、“有難う”と書きます。
“ありがとう”は、実は仏教に由来する言葉です。
もとになった話を紹介しましょう。

■盲亀浮木の譬(もうきふぼくのたとえ)
お釈迦さまがあるとき、阿難(あなん)というお弟子に、
「そなたは、人間に生まれたことをどのように思っているか?」と尋ねられた。
「はい。大変よろこんでおります」と阿難は答えた。
お釈迦さまが、「では、どれくらい喜んでいるか?」
と重ねて尋ねると、阿難は答えに窮した。
するとお釈迦さまは、一つの例え話をされた。

今日、「盲亀浮木の譬(もうきふぼくのたとえ)」と言われているお話。

「果てしな〜く広がる海の底に、目の見えない亀がいる。
その亀は、100年に1度、海面に顔を出すのだ。
広〜い海には1本の丸太棒が浮いている。
その丸太棒の真ん中には、小さな穴がある。
丸太棒は、風のまにまに、波のまにまに、西へ東へ、南へ北へと、漂っているのだ。
阿難よ。100年に1度浮かびあがるその目の見えない亀が、
浮かび上がった拍子に、丸太棒の穴に、ひょいっと頭を入れることが有ると思うか?」
聞かれた阿難は驚いて、
「お釈迦さま、そんなことは、とても考えられません」と答えた。
「絶対にない、と言い切れるか?」

お釈迦さまが念を押されると、
「何億年×何億年、何兆年×何兆年の間には、ひょっと頭を入れることがあるかもしれませんが、 ない、と言っても良いくらい難しいことです」 と阿難が答えると、
「ところが、阿難よ。 私たちが人間に生まれることは、その亀が、丸太棒の穴に首を入れることが有るよりも、難しいことなんだ。 有難いことなんだよ」
と教えられています。