足元を常に見る。お大師様の様に全てに感謝する。この歳に成れば考える事が多くなるなー

50歳は人生の節目かなー?
誰も通る通過点なのか?何をするか?どう進むか?流されるか?道を究め修行するか?。
少しでも、全てに感謝し、少しでも世のために、他のために、僧侶として
行者として進む道は開かれている様な気がする。

最近は自分の事も家族の事も親戚縁者の事も友の事も
無関係なこの世の生きるもの全ての事をも考える様になった自分がいる。
先日、姉の見舞いに行った、元気そうで成りよりでした。
ボケない様にいろんな話をした、母親方の両親や兄弟先祖様の話で
名前やお墓は?後継者は?等多々話をして、姉も結構覚えていたし
私が知らない事もあった。昔の話は先人が生きている内に聞いておくが良いと感ずる。
帰りに、母方側の檀家の墓にお参りさせていただいた。

お大師様の有りがたいお言葉で「性霊集」に
●もし恵眼(えげん)をもって、これを観ずれば、一切の衆生は、皆これ我が親なり。
※現代語訳・もしも仏様の知恵の眼で観するならば、全ての人々は自分の親であると

※誰もが自分一人では生きられない、皆が親子兄姉弟妹(きょうだい)である。
この言葉は、「仏経を講演して四恩の徳を報ずる表白」という文中にあり
経典によって教えを講演し、四恩の恵みを説いた文である。

四恩とは「父母先祖、国王天皇衆生生きるもの全て、三宝(仏法僧)」
の恩をさす。お大師様はそれぞれの恩について
父母の恩は、「天よりも高く地よりも厚い。身を粉にして、命を失っても、いつになったら報いる事ができよう」
国王の恩は、「たとえ父母が自分を生んでくれえても。もし国王がいなかったら互いに争って命を保ちがたい」と言う。社会の序列のお陰で生きていられる。
衆生の恩は、「あらゆる生き物の事で、六道と言われる世界に輪廻転生から生死を繰り返して、今ここにいる有難さ。その長い時の流れの中で、誰もがいつかは出会って、互いに親と成り子になってきた。
今は、この生まれ変わるという考え方は理解しにくいことかもしれない。
しかしいつの世にか、互いに親子兄姉弟妹であったと言う感覚は、私達日本人が
大切にしてきたものであろう。
そもそも誰も一人では生きていけない。
どこかでつながりあって、お陰さまで生きていられる。
仏様の智恵の眼で見るなら、「一切の衆生は皆これ親なり」なのである。

※先日読んでおり大切さを痛感しており
母方の先祖様にもロウソクを立て線香を上げ手を合わせ
段々とこの世の全ての事を考え、お大師様の様に
この世全てを救いたい、幸せ感謝を誓願に経を読みました。
感謝感謝・合掌。